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    |  | tetoさんと私が政治問題を議論しますと個別的な論点ですらどうしても分かれてしまいますね。
 それでお互い右と左とに論じて、それを既存の政党と政治団体に結び付けてしまう傾向があります。
 右と左の語源を調べているのですが、まだ見つけることができません。
 私の記憶では、どこかの時代にどこかの国の議会である問題に対して議会が右と左とに別れてしまったとおぼえています。
 
 芦部信喜先生の憲法テキストによると、
 フランスでは、市民革命期に君主主義を否認して制定された新しい立憲主義憲法の主権原理として、ナシオン(nation)主義をとるかプープル(peuple)主義をとるか争われた
 とあり、日本でも「国民主権」をその概念を用いて説明する学説があるそうです。
 
 ここで、お互い国民主権に関して、tetoさんは、ミギのナシオン主義としてのそれであり、私は、ヒダリのプープル主義のとしてのそれになりますね。
 
 芦部先生は、そして続けますと、後のように説明します。
 しかし、もしナシオン主義の意味を「国籍所有者の総体としての国民(全国民)」、プープルの意味を「社会契約参加者(普通選挙者)の総体としての国民(人民)」と解すれば、二つの主権原理は、
 とあり、右と左との位置づけがわかります。
 
 この国の憲法には、国民主権の原理には、二つの要素があると芦辺先生は、その本文で分類しています。
 一つは、国の政治のあり方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するという権力的契機として、
 もう一つは、国家の権力行使を正当づける究極的な権威は国民に存するという正当性の契機である。と。
 
 そう考えますと、tetoさんは、国の機能性を考えて論じる傾向があり、私は、国はあくまで国民ひとりひとりの意思にあると論じる傾向があります。
 右と左をこの憲法で考えますと、それぞれ国民主権に立脚して、右とは、国ありきであり、左とは、人権ありきとなってしまうのでしょうね。
 右と左を論じるうえで、保守派であるとか革新派であるとかを含めようとするとあまりにも複雑になり、難しくなってしまうと思います。
 
 ▼まあしい(反応市民)さん:
 >>>法曹界は左よりの人が多いと聞くけど、実際それっぽいね。
 >>>まあ、三権分立のなかの一つの権力で
 >>>国家権力に対抗するという目的意識に燃えている人が多いのは事実なんだろうけど。
 >>>それにしても無駄に左寄り過ぎる。
 >>
 >>tetoさんは、国ですか。
 >>ものすごい勘違いをされていませんか。
 >>そうした場合には、間違いなく理解できないでしょうし、それをお話しようとすら気にもなりません。
 >>突然身に覚えのないことで逮捕されてもやむなしとして、狸寝入りをされるのでしょうね。
 >>おいたわしや。
 >
 >たとえば日弁連は、強制加入団体で、当然さまざまな主義主張をもつ
 >弁護士さんがたくさんいる団体のはずで、本来ひとつのイデオロギーに
 >などまとめられないはずの団体なのですが、
 >明らかに特定の主義に偏ったアピールを数々出しています。
 >
 >http://www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/sytyou/kaityou/00/2002_17.html
 >http://www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/sytyou/kaityou/00/2002_11.html
 >http://www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/sytyou/kaityou/00/2001_14.html
 >http://www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/sytyou/iken/02/2002_10.html
 >
 >これは、ヒダリヨリ、と言われても仕方のないものだと愚考しますが、
 >いかがですか。
 
 法曹界は、裁判官・検察官・弁護士の総称ですが、裁判官と検察官は、公務員ですね。
 公務員となると国の組織の一員として、政治の意思が色濃くなり、その判断基準もその傾向となります。
 一方弁護士とは、最近は法曹人口の拡大に伴って大規模な法律事務所になる傾向がありますが、あくまで弁護士一個人の思想ということもあり、政治色とはなれてその憲法観は人権保護色が強いものだと思います。
 公法上の訴訟をイメージしますとわかりやすいものだと思います。
 弁護士が、例えば弁護すべき被告人に対して検察官と同じような接し方では、その被告人の立場で考えますと怖いと感じますよね。
 人権保護色の強い弁護士の団体である日弁連がヒダリヨリであるといわれるのは、そうした理解のうえでは納得できます。
 
 >
 >
 >>>
 >>>まあそんなことはさておき、上の文章で確認されたという内容が果たして
 >>>誠実に国内で履行されているのかどうかは疑問符がつきます。
 >>
 >>当時の状況では、対等の立場での会談とは到底思えません。
 >>今につながりますね。
 >>いまでも、条約は憲法に上位するといわれるときがありますが、こうしたところに注目したのかもしれませんね。
 >>すなわち、直ぐにでも取り組んだと思いますよ。
 >>>
 >>>>『池田・ロバートソン会談』の意味するところは、保安隊に入隊する青少年を教育によって育てなさいということだと思います。
 >>>>疑問として平和主義を謳う日本国憲法をある意味押し付けた米国が朝鮮戦争を機に警察予備隊を創設しなさいと言う、また一方では防衛のための意識を高めるために『愛国心』教育に取り組みなさいと言ったわけです。ここに大きな矛盾を感じたわけです。
 >>>
 >>>この会談でそういう話がなされたのは事実なんだろうけど
 >>>一方で日教組はがんばってさ
 >>>自衛隊の子供は人殺しの子供だ、なんて学校でつるし上げてるんだよ。
 >>>そういう事実は知ってますか?
 >>
 >>こうしたところで、心情論に訴えられましても困ります。
 >>具体的に教えてください。
 >
 >心情論って、「オマエモナー」でおしまいになっちゃうよ、
 >その決め付け方だと。
 >
 次にまとめて論じます。
 >>>
 >>>>教育勅語が絡んだ理由としては、『愛国心』とはこの国の固有、つまり戦前戦後を問わずこの国に生きてきた、また生きている私達が有してきた価値観であるのかどうなのかを知るために戦前の教育の中心であった『教育勅語』にそれを求めたわけです。また、検索したサイトでは、教育基本法の手直し論と愛国心、また戦前の教育勅語に触れていたわけです。こうしたことから、これらは密接した論点なのかもしれません。
 >>>
 >>>教育勅語なんか持ち出さなくても
 >>>戦前は愛国心があったでしょう。
 >>>愛国心がなければ、国のために死ねません。
 >>
 >>そうならば、tetoさんは、真っ先に自衛隊に入隊していますよ。
 >>他人任せの愛国心ではないですか。
 >>誰が死ぬのですか。
 >
 >だから、なんでいつも最後は「お前がお国のために死ね」ってなるのよ。
 
 私が自衛隊のことをかんがえますと、自衛隊員ひとりひとりの心情を察します。
 一方、tetoさんは、自衛隊の組織に着目して論じる傾向がありますね。
 
 政府が自衛隊を考えるところを検証してみますと、国連の安全保障理事会入りを目指して、自衛隊を正規の軍隊として実績を積みたいのだと考えられます。
 
 こうした憲法第九条を考えるアプローチとしては、自衛隊を軍隊と認めて国際的な活躍を認めようではないかというアプローチといやいや平和憲法なんだから「平和のうちに生存する権利」を世界的に広めようではないかというアプローチがあるものだと考えています。
 この条文の改正については、こうした二つのアプローチがあるものだと私は認識しています。
 
 ここまで論じてきた『愛国心』とは、こうした政治に絡んできますよということです。
 
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