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>>日本代表がその力を誇示し、プロサッカーが国内で認知された90年代初頭から
>>少なくともサッカー日本代表サポーターの間に日の丸と君が代に対する抵抗感はなくなりました。
>そうした背景から『愛国心』が気軽に論じられるようになったと見ています。
俺は日本が好きだ。
で、いいんじゃないの?
ワールドカップに熱狂し、五輪に熱狂する。
そのベースは愛国心ですよ。
>>アメリカから持ち込まれた概念というのは、非常に抵抗感のある説明です。
>アメリカから持ち込まれた概念という私の説を切り崩すためには、『愛国心』の由来を『池田・ロバートソン会談』以前から見つけなくてはいけないと思います。
これも前に書いたからスルー。
君も持つ愛郷心が国に拡大したときに愛国心となる。
それは人間が当たり前にもつ感情です。
>教育の中から教え込まれた概念であるとすれば、それを見つけるのは大変困難な作業だと思います。
>つまり、文献の中で見つけようと思うのでしたら、戦前以前に教育された人によるものでなければその証明が困難だと思います。tetoさんも自分自身を疑ってみる必要があると思います。なぜなら、教育によって本質をすりかえられている可能性は否定できません。
だからこんな風に難しく考える必要はない。
>歴史学は全く詳しくないですから、『愛国者』の由来が明治維新以降であるのか古代史に求めるのかはわかりませんが、明治憲法下での天皇制を観点に探ればtetoさんが以前述べていた古代史に起源があることになりますね。
人間は自分のかかわりのあるものに愛着を感じるわけで
愛国心は本能の一部でしょう。
つまり国という概念にもよるけれども
愛国心と同じベースの感情は人間が生まれたときから持っているはずです。
>愛国心という観念がアメリカからものでしたら、歴史の浅い移民による国家でありしかも国の連立国家であることから、国民をまとめようという意思がかかる場合に『愛国心』というのは、とても便利な観念に思えます。
便利だと思います。
>しかし、およそ単一民族によりなりしかも天皇制度の下長い歴史を有するこの国では、そうした『愛国心』という観念は育たないものだと私は思います。
そんなことはない。
>他国による侵略に対する防衛心というのは、あまり侵略戦争を経験したことのないこの国では発想できないものだと感じます。
そんなこともない。
>今の国民からみたら、間違いなく明治憲法化の臣民というのは理解しがたいものだと思います。
>ですから、臣民の義務として国を守らなければならないというのと、おそらく祖国を愛して祖国を守りましょうねという『愛国心』とは、緊張感が違うものと思います。『愛国心』からくる国防意識というのは志願したい人はどうぞといったニュアンスに対して、明治憲法下である天皇の家来としての徴兵制が伴うことにも注目して欲しいです。
臣民であろうとなかろうと、愛国心はあるでしょう。
緊張感が違うというのはその通り。
戦前は戦争が当たり前にあった国だったわけで
おまけに徴兵制だったわけで。
>>最近の新しい愛国心観念とはなんでしょうか?
>私は、『池田・ロバートソン会談』において確認された『愛国心』と最近気軽に論じられている『愛国心』を区別して考えてみたわけです。
それがよくわからない。
池田君とロバートソン君の会談で確認されたと君が主張する愛国心とは
つまり戦争も視野に入れた愛国心ということなのかな?
それに対して今言われている愛国心はスポーツを通して作られたもので全然重みが違うと。
別にぞっとするほどのことではないと思うけれど。
愛国心というのは、自分の国を愛する気持ちで
愛するものを壊されるとしたら、それに反発する気持ちがわいてくるのは必然。
>確かに商法もですし民法も最近口語約された刑法もそうです。
であるならば、明治憲法下での法律は今も生きているわけだよね。
もちろんすべてが残っているわけじゃないけど
時代に合わせてかわってきているわけだけど。
>親を殺害すると言うのは、道徳的に見てそりゃとんでもないわけですが、法の下では罪であれ平等であることが求められてようやく最近削除されたと記憶しています。
平等の使い方が決定的にまちがっとる。
バカタレ。
親を大事にしなさい。
まあ、大事にしてるのはしっとるが。
>道徳であればそれに従うことは各自の判断によるのですが、それが命令であったり法律であったり国によるものである場合はそれに従う義務が生じます。道徳と法律上の命令とはそうした意味で違うわけです。
道徳教育は強制です。
先生が「ごみはできれば捨てないでください」
なんていって、クソガキどもが言うこと聞くか、たわけ。
「こら、masato。どこにごみ捨ててるんだ、バカタレ」
で初めて動物が人間としての常識を一つ身につけるわけです。
人間は、人間として生まれてくるわけではないのだよ。
教育によって人間になるんだよ。
>ここで確認しなくてはならないのは、大学では先生は自分の研究した内容を自由に講義できるわけですが、高校生までの教育では検定に合格した教科書の中で先生は生徒を教育しなくてはならないのであって自分が研究した内容を教育できない、ということを知らなくてはいけません。ん?、矛盾がありませんか。
高校までかけなければ基礎が教えられないからでしょ。
基礎を知らずに応用させてだれが理解できるの?
四則演算を知らないで、微分積分が解けますか?
こんなことごくごく簡単な事なんだけどなんで議論せにゃならんのだ?
>それなら先生方が『教育勅語』を研究して生徒に教えればいいのですが、それを国はだめだということで制限を加えているのに、さらに教育基本法を改正して『教育勅語』を取り込もうとしているわけです。
>この国の教育行政は、前述のように国家統制化されてなおもこの国の憲法理念を捻じ曲げようとしているわけです。
>これは、憲法23条の学問の自由と26条一項の教育を受ける権利の問題です。
では聞くが、君の理想とする教育行政とは?
そもそも行政が教育にかかわるべきではないと?
野放図な教育が理想なのでしょうか?
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