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    |  | ▼tetoさん:
 >▼masatoさん:
 >>えーと、要するに『愛国心』とは、何かについてです。
 >今度スレッドを立てるときは、議論のテーマをタイトルにしようね。
 
 ここの『愛国心』は、後でまた取り上げようと思っている自衛隊の前身である警察予備隊と保安隊や安保条約関連などと絡みますから、また今度取り組んでみようと思います。
 今の論点は『愛国心』についてですが、このスレッドの趣旨はこの歴史を今一度振り返ろうということです。
 次の論点に移る際は、反省を踏まえて取り組んでみたいです。
 
 >それはありえないですね。
 
 『池田・ロバートソン会談』で日本政府は愛国心と防衛の精神を広報と教育を行うと現実に確認されているわけですね。
 で、愛国心教育がされていたという事実も残ってるわけです。
 私の仮説は、祖国を愛し祖国を自らで守ろうという『愛国心』の精神がアメリカから持ち込まれたのではないかということですね。
 
 >ところが、実情は、今現在教育基本法を改正しようという議論の中で
 >愛国心という文言を入れようとするだけで各方面で大騒ぎしてます。
 >こういう反応見て、まず今までに国が先導して愛国心を教えて来たわけがないといえます。
 
 国家統制によって教育の反動化が行われたということを確認しました。
 そういった反動化した教育行政への国民の反対によって『愛国心』教育がタブーになったと見ることができます。この点は、確認できていません。
 
 >また自分の皮膚感覚で今までの義務教育の中で愛国心を教えてもらった感覚が残ってますか?
 
 そうなんですよね。確かに『愛国心』教育を受けた記憶はないですね。
 それよりも、受験勉強の詰め込み型の教育を受けた記憶しかありませんね。
 あと、一応確認ですが、義務教育とは小・中学校までの国に対する父母の子女に教育させる義務のことです。
 
 >逆にぼくは自虐史観に基づくダメダメ国家日本というものを教えられてきました。
 >これは愛国心とは対極にある教育でしょう。
 
 歴史の教育の中では、世界史も日本史も人間が二足歩行を始めたというはじめの部分は扱っていたのを良くおぼえているのですが、一方で今回検討している近代史や現代史というのはなかなか学んだ記憶が乏しいです。
 そうするとだめだめ国家日本について学んだ記憶はないです。
 
 >国民国家が成立して初めて成り立つもので
 >国民国家とは何かというとそれは近代に入ってできてきた新しい概念なんですよ。
 >http://d.hatena.ne.jp/saiton/keyword/%B9%F1%CC%B1%B9%F1%B2%C8?kid=5694
 
 申し訳ないですが、国民国家というのは、記憶がないです。もしかしたら、国際法で学んだかもしれません。
 そのサイトによると、国民国家とは、国民・領土・主権がその要件のようです。
 日本がこの3要件を備えるができましたのは、戦後この日本国憲法によってです。
 ちょっと振り返ってみて、江戸時代では、人民は、士農工商の身分があり、それぞれがその領土を治める殿様のもとで生活を行っていましたね。そうすると身分制のある人民は、国民とは言えないですよね。
 立憲民主主義となった明治憲法下では、人民は身分制のない臣民という地位につき制限つきではありますが選挙権を有するようになりました。しかし、ここでは欽定憲法下であり主権は元首である天皇のもとにあったわけです。ですから、ここでいう主権を国民が持っていたというわけではないです。
 一つ確認しますが、明治政府がモデルとしたプロイセン憲法は、当時のヨーロッパで遅れていましたし、それが君主主義を採用していたことに着目して天皇制にアレンジすることで本来国民たる地位を天皇の家来である臣民したと、記憶しています。
 そうして考えてみますと、国民国家たる3要件を備えることが出来た戦後の日本国憲法下ではじめて『愛国心』という観念が成立したと言えます。
 
 >で、坂本竜馬が動いて大政奉還させたわけだよね。
 >で、新政府を作った。それが明治維新。
 
 『竜馬がゆく』の作品を描いた司馬遼太郎さんに着目して、彼が生きていた時代を検証してみようと思ったのですが、1923(大正12)-1996(平成8)でしたので、戦後愛国心教育を受けていたと証明することが出来ませんでした。
 この作品の中では、坂本竜馬がペリー来航のいわゆる黒船来航によって『外患内憂』や『尊皇攘夷』などを感じ、新政府樹立のために奔走していた姿を見ることができました。
 ここに『愛国心』を見ることができるようですが、坂本竜馬は武士の家柄でしたし、薩摩長州などで名を残していた人物なども結局のところ領主の利益のためにそうした活動をしていたと見ることができます。
 好きな作品ではありますが、そこにここで論じている主権者としての『愛国者』を読み取ることができませんでした。
 その他彼の作品を途中までですが、『坂の上の雲』や『飛ぶが如し』などを読んだことがあります。
 これらでは、『愛国心』を読み取ることができましたが、前述のように憲法上天皇の家来としての地位でしかなかった臣民でしたから、主権者たる身分による『愛国者』であるかどうかわかりません。
 確認しておかなければならないことは、彼は日本国憲法下で成功した小説家であるということです。
 
 >この時点から、国の単位が殿様中心の狭い世界から
 >日本全土に概念が広がったわけ。
 
 この点では、歴史上この国が国際的な地位を築く上で重要だったと思いますが、国民国家という要件では、領土という要件は満たしましたが、国民と主権の要件は、臣民たる地位と天皇主権という明治憲法下では満たされていません。
 
 >じゃあ、江戸時代に愛国心がなかったかというとそれはそれであったわけ。
 >つまり殿様に対する忠誠心と、殿様が治める領土に対する愛情ね。
 
 人民が主権者としての地位を獲得してはじめて国民による主権が実現されるわけで、殿様であるとか君主であるとの権力を抑止することが必要になってくるわけです。
 
 >例えば君は大分トリニータを応援しているわけだけど
 >それはなぜかというと、おそらくは大分出身者だからだと思うのね。
 
 確かに大分にトリニータがあり、私は応援しているわけです。そこで、郷土愛を大分という地元に感じます。
 ところがこれは、私の自主性によってはじめて感じるところですし、間違っても押し付けられてのものではないですね。
 
 tetoさんは、大分トリニータというチームの存在を知り、そこで今の職業をされていると知りました。
 明治憲法下でも職業選択の自由がありましたが、ところが、このような報道をするにも制限がありましたし、自由な思想による自由な発言も保障されていたわけではないですよ。
 保守化であるとか反動化というのは、こうした自由に制限を加えようとするものなんです。
 
 >よく考えると、あれは道徳の規範であって愛国心とかは関係ないね。
 >それは強制という意味合いがあってもおかしくない。
 
 一見一面について良かれと思うことでも、それが正しくない方向に向かっているということもあります。
 『愛国心』によってこの国の認識を考えてみようという取り組みは、とてもいいと思います。
 ところが、『池田・ロバートソン会談』で確認することができたように、『愛国心』という観念は、後で取り上げようと思っている自衛隊や安保条約関連に絡んできますし、保守政党による反動化ということも見逃すことができません。
 
 >そしてそれは特に批判されるべきものでもないと思う。
 >それが道徳教育というものでしょう。
 
 もし教育において教師にもっと自由があれば、道徳教育ももっと実りあるものだったかもしれません。ところが前にお話したように、国家統制による反動化によって教師の教育する自由なるものが制限を加えているのです。じゅあ、国家で道徳教育をしようとするのが、時代を逆行することを意味します。
 道徳というのは、戦後では子供の近くにいる人が親であり先生であり、子供に対して教えていたものだと思います。
 ところがこうしたことがだんだんできなくなっているのも事実ですよね。
 親は仕事に手がいっぱいで、教師はその教育について制限を加えられていますし、子供と言えば親よりも忙しい日々を過ごしているわけです。
 こうした中で子供が十分な人格を築くことができるかといえばそうではないですね。
 こうした社会問題を国で扱おうというのは間違いだと思いますし、じゅあどうすればいいかといいますと、捻じ曲げられた憲法観を戻し社会問題についてひとつひとつ取り組むことだと思います。
 そこに『愛国心』というものをもちこむ必要は無いと思いますし、子供が自発的に人格形成を行うことができる社会を形成していく必要があると思います。
 
 >タバコのポイ捨て、してもいいじゃんという人間に対して
 >ダメ、と強制するのと同じ。
 >そういう共通認識を道徳教育で作るわけだから。
 
 タバコのポイ捨て問題は、自治体レベルで取り組んでいるのですよね。それは、いいことだと思います。
 この国は、直ぐ問題があると国で解決しようとしますが、自治体のレベルで扱える領域を増やしていく必要があると思います。
 国際社会では、『大きな国家から小さな国家へ』という流れにあるそうです。
 この国は『愛国心』もそうですが、地方自治であるとか『郷土愛』などもっと身近のところから問題を解決するように努力する必要があると思います。
 そういうことだと思いますし、この国の歴史もそれを示していますよね。
 
 
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