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tetoさん、こんにちは!。
>何が言いたいの?
最近勉強を再会したとメールでお話しましたね。
で、『池田・ロバートソン会談』について知りました。
「愛国心の教育?」とみて不思議に思ったわけです。
『愛国心』をキーワードに検索して辿り着いたとあるサイトでのことですが、あるメディアがサッカー日本代表を通じての青少年が抱きつつある愛国心の高揚を政治で利用されることが危惧されるというような指摘をしていたことにふれ、政治に利用されない「愛国心」で新しい価値観を築けばいいといったことを論じていました。
またとあるサイトでは、帰化した元日本代表の選手の発言に触れていたわけです。
『池田・ロバートソン会談』を知った上でこれらの発言を読んでみましたら、恥ずかしく思いました。
こうした本来の意味での『愛国心』を知らない世代が『愛国心』を論じているわけです。
ここで、「本来の意味の『愛国心』」とは、非常に政治的な観点であることを確認してみてください。
『池田・ロバートソン会談』を歴史的に検証してみたらわかることですが、『愛国心』というのは米国によってはじめて持ち込まれた概念であることに気づきます。
『愛国心』といえば、先日の同国内でのテロ同時多発事件後の国威の高揚で用いられた観念だと理解しています。
この国の歴史を検証してみますと、大日本憲法下での『教育勅語』からは『愛国心』を読み取ることができませんでした。
『池田・ロバートソン会談』で確認できた愛国心と防衛意識の教育からは、日本国の政府だけでなく米国政府の軍事的戦略などの思惑を見ることができるわけです。
その思惑とは何かというと、わが国の政府では、戦後から憲法改正を念願として戦前のような強固の中央集権国家化と軍隊の復帰であり、米国政府では、現在では広範となりましたが当時の極東安定のための軍事的な安定のための戦略であると考えられます。
そうしてみると、この『池田・ロバートソン会談』で確認された内容は、当時のこの国の状況から検証してみると不自然であることに気づきます。
最近では、新しい『愛国心』観念をもつ青少年は、この『愛国心』を価値観として戦前の『教育勅語』を再評価して、『教育基本法』を改正しようとする動きがあります。
『教育勅語』は、道徳律としてみるとすばらしいものがあり評価できますが、あくまでそれは明治憲法下での勅令であり、現在の日本国憲法下では無価値であることは言うまでもないですね。
なぜなら、明治憲法下では有効だった民事・刑事上の法規定が現憲法下で廃止されたものを確認してもらえれば理解できると思います。
道徳としてのそれと法律の分野でのそれとは、違うわけです。
すなわち『教育勅語』とは、命令であって、道徳ではないのです。
新しい『愛国心』を論じる青少年は、果たして『池田・ロバートソン会談』を知っているのか疑問に思えます。
政治上では本来の意味の『愛国心』があり、新しい『愛国心』を唱える論者はそれを知らないとすれば、政治上利用されても気づくことはないでしょう。
『愛国心』論ではありますが、そこに潜むのは憂国論ですね。
本当に残念なことです。
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